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琵琶湖は古来より、京阪神への水源であると同時に重要な交通の要衝でした。日本海で取れた海産物を始め、北国諸藩からのたくさんの物資を敦賀で陸揚げし、深坂峠を越えて塩津港へ、再び船積みして湖上を大津・堅田まで運び、陸揚げして京都、大坂へと運びました。こうした北から南への荷物を「上り荷」といいます。具体的には「ニシン・海藻類・生魚・馬の鞍木」などです。またこのルートを逆に運ぶ(大坂・京都から若狭方面へ)のを「下り荷」といい「綿・飴・醤油・酒樽・着物・反物・煙草」などが多く運ばれていました。船の所有数や問屋などの数から考えても、主要48浦(小さい港も含めると100以上)の中で大津、塩津は飛びぬけて多く、琵琶湖水運の中心は南北の物資輸送であったと考えられます。
琵琶湖の水運は中世までは主に「堅田衆」が掌握していたと言われています。時として海賊まがいのことも行っていたようで、かなり荒っぽい支配だったのかもしれません。西浅井の菅浦にも「菅浦水軍」という組織があり、堅田衆との間でしばしば争いが起こったと言われています。
平安時代に瀬戸内の水運を支配した平清盛は息子の重盛に命じ、塩津(琵琶湖)〜敦賀(日本海)との運河を作ろうとしました。歴史教育では東海道や中仙道といった主要街道(陸路)を中心に語られていますが、「天下取り」を目指した多くの武将たちがこぞって琵琶湖の水上権を牛耳ろうとしたことを考えると、いかにこの琵琶湖の水運支配が政治的・軍事的に重要であったかということがうかがえます。
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1569(永禄12)年頃、琵琶湖水運を織田信長が支配し始め、廻船行の継続を保証します。後の天正年間(1573〜1591)には、秀吉が湖上権を掌握し、大津七浦・坂本・堅田・木浜で「大津百艘船」を組織しました。こうして琵琶湖は輸送路としての重要なポイントになっていきます。
しかし江戸時代初期(元禄時代)に、幕府の命により河村瑞賢(1617〜1699)が「東・西回り航路」を開拓します。当時太平洋沿岸、日本海沿岸は海路が確立されておらず難破する船が多かったため、大量の物資輸送のためには海路の開拓、整備が重要な懸案になっていたのです。これにより「菱垣廻船」「樽廻船」といった海洋廻船が発達し、北陸と京都、大坂を結ぶ水運の要衝として栄えた琵琶湖水運も衰退を始めることになります。河村瑞賢は1697(元禄10)年に、敦賀―琵琶湖間の運河を計画しましたが、老齢と他の事業との兼ね合いにより、計画が実施されることはありませんでした。またその頃には、それまで近江商人が実権を握っていた「北前船」が独立営業し始め、陸路を併用しなければならない琵琶湖水運はますます衰えていきました。
そして明治15年(1882)に開通した「北陸鉄道」は琵琶湖水運に最終的打撃を加え、昭和40年頃(1965)には琵琶湖から丸子船の姿が完全に消えてしまいました(数年前まで湖北町尾上において一艘のみが使用されていた例外もありますが)。こうして1000年以上続いた琵琶湖水運の歴史は幕を下ろしたのです。
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天下人たちがこぞって手中に収めようとした琵琶湖水運の湖上権。先にも少し触れましたが、1000年の昔から幾度となく「日本海〜琵琶湖運河」の計画がなされて来ました。
その先駆者である平重盛は、運河の深坂越えを断念した時に「後世必ず湖水の水を北海に落とせと言う者あらん、このこと人力の及ぶことに非ず」と書き残したと言われています。まさにこの言葉どおり、太閤秀吉や徳川幕府が幾度も計画を立てましたが、すべて計画倒れに終わっています。近いところでは、平成6年に敦賀で開かれた「海湖の道」フォーラムで、平成の大運河計画が発表されました。しかし今日まで、未だに実現には至っていません。時代によって事情は異なりますが、その主な理由としては
1.過去の土木技術が未熟であったこと。
2.近江・敦賀間は岩盤が多く掘削が困難であったこと。
3.海上水運が発達し、琵琶湖の湖上水運の重要性が下がったこと。
4.近年では陸路(鉄道・国道・高速道路)などが整備され、湖上の船便の需要がなくなったこと。
5.経済効果が少ないこと。
などが上げられます。近年ではこれ以外に、環境への影響や治水上の問題などが加わり、運河計画が実現する可能性は皆無に等しいかもしれませんが、先人たちの琵琶湖に託した大きな想いは大切にしていきたいものです。
>>運河計画年表 |
北淡海・丸子船の館 〒529-0721 滋賀県長浜市西浅井町大浦582
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