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平清盛も断念した 緑深い渓谷の坂
 平安初期の延喜式(えんぎしき)にも「敦賀津より塩津に運ぶ、塩津より大浦に漕ぐ」とあるように、ここ西浅井町は古くから北陸と京都・大阪を結ぶ交通の要衝でした。
 北国から運ばれる数多くの朱や海産物は、まず敦賀から入って深坂峠を越え、沓掛、余、塩津中、そして塩津浜へと運ばれ、そこからさらに丸子船で大津へ、都へと送られました。その塩津街道と呼ばれる道筋の中で、もっとも通行が困難だとされていたのが深坂峠です。
 緑深く急勾配の峠が、幾多の人、そして牛馬の通行を妨げるため、何度となく開削工事が試みられました。平安末期のこと、平清盛が琵琶湖と日本海を結ぶ運河を計画し、長男であった越前国司・平重盛に開削を命じたといわれています。しかし、塩津大川から始めた工事が深坂山にさしかかったとたん工事は難行し、開削しようとした石面に地蔵尊の姿が現れ、運河工事は断念せざるを得なくなりました。このことを後世に伝えるために祀った深坂地蔵は、別名「堀止め地蔵」とも呼ばれています。
 塩津浜から敦賀を結ぶ運河計画は江戸時代、明治時代、そして昭和に入ってからも計画されましたが、いずれも実現することなく今日に至っています。
海産や工芸の名品がいくつも往来
 そもそも「塩津」の名前は、塩のない近江に塩が入って来る港、ということに由来するそうです。ここでの主な上り荷(北陸から京都・大阪へ向かう荷物)は、米、青菜、紅花、たばこ、にしん、ぶり、昆布、わかめ、干鰯、鉄、鉛、銅などで、一方、下り荷(京都・大阪から北陸へ向かう荷物)は陶磁器、綿、呉服、太物、茶、みかんなどでした。
 江戸時代になり、年貢米の積み出しが激しくなると、道は「上り千頭、下り千頭」といわれるどのにぎわいを見せ、馬や大八車が盛んに往来し、約10軒のもの旅館のほか、大きな問屋が軒をつらねたといわれています。
勇士たちの熱い攻防を今に伝える
 集福寺の下塩津神社の境内にひっそりと立つ石塔があります。豊な緑に包まれて、うっかりすると見落としてしまいそうな場所にあるその塔は、悲劇の武将・河野通治をはじめとする一族の供養塔です。
 南北朝の動乱期、後醍醐天皇が足利尊氏と新田義貞の協力を得て建武の新政を行った2年後の建分3年、恩賞に不満を抱いた足利側と新田側の間に戦いが起こりました。新田の軍勢は足利の本拠地である鎌倉を攻めたが、逆に背走することとなり、垣良・尊良両親王を奉じて自らの拠点である北陸に退いたところを足利側に追われて果てました。
 「太平記」によれば、新田の家臣である河野氏や土井通増、得能通綱らが集福寺の地形に迷い、異例の風雪と寒気の中苦戦を強いられ、一族300余人があえなく没するさまが描かれています。
四百数十年もの時を越え、魂の静寂を保ちつづける
 ひっそりとした木陰に立ち並ぶ石仏の数々。この石仏群には戦国時代にまつわる逸話があります。
 地元に伝わる言い伝えによると、天正11年(1583)の賎ヶ岳の合戦において、負け戦になることを予測した柴田勝家輩下の武士たちは、家族をここ黒山の地に隠れ住まわせました。そして武士たちが討ち死にした後、残された家族が武士たちの菩提を弔うために石仏を祀ったといわれています。

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